日光枺諏mは江戸幕府最後の砦を目指して造営されたものであるとも言われ、天然要害の日光連山の地にもかかわらず構造物に石材を多用している他、装飾品には銅など、鋳造しやすい金属をふんだんに使用し、弾丸に転化できるようにしているという。
さて、枺諏mは枺沾髽噩Fこと家康を祀ってあり、当然ながら徳川家の葵の御紋がたくさん見られる。しかし、陽明門を守る木像の武士の紋はなぜか桔梗である(左写真/足の部分)。光秀の桔梗である。さらに、陽明門の前に立つ鐘楼のひさしの裏には隠れるようにおびただしい数の桔梗紋がある(右上写真)。実際に見ると不気味なほどである。表向きには徳川だが、密かに桔梗紋が沢山入り込んでいるのだ。これは何を意味しているのだろうか。
枺諏mというと日光が有名だが、他にもある。群馬県の世良田にも枺諏mがある。世良田というと、徳川という名の発祥の地とも言える場所であるが、この世良田枺諏mもやはり天海が作っている。もともと長楽寺の一部だった場所で、天海も住職をしていたことがある。近年、徳川埋蔵金伝説で有名になっているようだ。
徳川家光
春日局の項で少し触れたが、なぜ織田家の血が流れるお江の子&;#12539;家光を光秀側の人間である春日局が育てるのであろうか。乳母は公募で、春日局の夫である稲葉正成が関ヶ原の合戦で小早川秀秋に仕え、家康勝利に大きく貢献した功績を認められてのものと説明されているようだが、それにしても天下を治める将軍を育てるという重職についたばかりか、この後春日局として絶大な力を持つことになるのである。大奥を址慈摔私筏と宋铯耸饲肖椁欷皮い屏激い韦坤恧Δ?椞锛窑螖长摔ⅳ郡肴宋铯颏长欷郅嗓蓼扦酥赜盲筏郡长趣坤堡扦饧铱丹砰Lと親しい関係ではなかったことがうかがえるのである。
さて、三代将軍&;#12539;家光にも謎がある。『枺沾髽噩F&;#12539;大猷院&;#12539;慈眼大師板剑唬ㄓ倚凑妫─趣い}は家康、家光、天海という変わった3ショットが描かれている。家康、秀忠、家光というならわかる。2代将軍がいない変わりになぜ天海なのだろうか。2人の偉大な将軍とともに描かれているというだけで不思議だ。
家光の「家」は言うまでもなく家康の「家」だ。では「光」はどこから来ているのだろうか。まさか光秀の「光」ではないだろう。万が一にも光秀の「光」であるとしたら&;#12539;&;#12539;&;#12539;?そう考えたくなる物証がある。
それは『松のさかへ枺諏m様御文』である。家光の親が秀忠、御腹が「春日局」になっているのだ。家光がお江ではなく、春日局(お福)の子ではないかという説は根強く存在する。そればかりか、家光は秀忠の子ではなく、家康とお福の子であるという説まであるのだ。日光山輪王寺奥院にある家光の墓所には家光が使用していたお守りが現存している(右写真)。そこには「二世ごんげん二世しょうぐん」と書かれている。家光は家康の二世だというのだろうか。また「枺沾髽噩F将軍心も体も一ツ也」「いきるもしぬるもなに事も大ごんげんさま次第」ともある。いずれにせよ、家光が春日局の子であれば、春日局&;#12539;天海コンビの影が家光に強くつきまとっているのも不思議ではない。
秀忠&;#12539;お江夫婦が次男&;#12539;忠長をかわいがり、家光ではなく忠長を将軍にしたがったのはなぜだろうか。後に忠長は家光に命まで奪われている。
少なくとも、陽明門の桔梗紋、謎めいた天海、そして春日局と、址慈摔韦悉氦喂庑悚蝿訾い瑥姢瘡源à问坤瞬肖盲皮い毪趣いΔ长趣涎预à毪坤恧Α
かごめかごめ
さて、突然ここで話しは大きく飛ぶ。童郑巍袱搐幛搐帷工扦ⅳ搿H毡救摔胜檎lでも知っているあの歌である。昭和36年に出版された全国童唄集『わらべうた』では、この歌の発祥の地を千葉県野田市の愛宕神社(写真)としているが、そういえば本能寺の変の前の光秀の連歌会の場所も愛宕神社であった。(私は愛宕神社と「かごめ」を結び付けるものは何も知らない。情報求む)
ところでこの歌の意味をご存知の方はいるだろうか?ご存知ならば教えて頂きたい。謎なのである。一説には天海が残した謎掛けだという。
この唄は江戸時代の『竹堂随筆』という童郑碎vする最も古い文献にも登場しているが、現在のものとは少し摺Δ瑜Δ馈¥筏犯瑜い膜欷皮妞|に正式なものなどあるはずもなく、わかる範囲内で考えるしかないだろう。
「かごめかごめ护沃肖硒Bはいついつ出やる夜明けの晩に鶴と亀がすべった後ろの正面だあれ」「出やる」は「出よう」という説もあるが定かではない。私もこの歌の解読は出来ないが、少しだけ考えてみたいと思う。ここでこれを取り上げるのは、この歌が天海の作とされ、また光秀とも関係がありそうだからだ。
謎解き
まず「かごめ」である。おそらく「荒俊工扦ⅳ恧Α;を編んだ六角形のことを言っているのではないか。「护沃肖硒B」は「六角形の中のニワトリ」と考えられる。なぜニワトリかというと、この歌の2番に出てくるからだ。2番があること自体知らない方があるかもしれない。2番もやはりかなり難解である。後で紹介しよう。その前にニワトリだが、ニワトリは古来から時を告げる鶏であった。「時を告げる」は「土岐をつげる」ではなかろうか。つまり光秀(天海)や春日の局ら土岐氏の存在を暗示しているのではないだろうか。
「いついつであう」は「いつ存在を明らかにするのか」ということ。これは「この歌の謎が解かれるのはいつだろうか」とも思えるし、「土岐氏はいつ登場するのか」とも思える。
「夜明けの晩」は方角を表わしていると思われる。「鶴と亀」はいずれも日光枺諏mにいる。「すべった」は「統べった」で、つまり「鶴と亀が統治した」となり、「鶴と亀」は「徳川と土岐」ということになるのではないか。天を舞う鶴が徳川で、亀が土岐だろうか。
日光枺諏mの中の眠り猫の門を過ぎて奥の院に向かって階段を上ると家康の迹翘盲ⅳ搿¥饯吻挨涡·丹食丐塌Qと亀がいるのだ。鶴は鍵をくわえている。どこの鍵なのだろうか。
枺諏mの中央に「鶴と亀」の彫刻を置いたのも意図的なことではないかと思う。縁起の良い鶴と亀、天を舞う鶴と地を這う亀が一緒にいるということは、天と地が秩序が正しいということだろうか。社殿の配置的には、表門を入ると正面にこの中神庫があり、この軸線をまっすぐ北に延長すると本殿をかすめて奥社を、逆に南に延長すれば参道を経て、江戸を指していることになる。
荒
「かごめかごめ」を作ったのが「天海=光秀」と仮定し、彼の視点からもう少し考えてみよう。明智家の出は岐阜の可児である。可児から夜明けの方向を見ると日光があり、後ろの正面となる晩の方角はその逆方向になる。あの本徳寺がある方角である。本徳寺を後にした光秀は天海となって江戸、日光に向かったのだろうか。これら全てが偶然とはとても思えない。
家康が葬られたのは静岡の久能山である。久能山から見て鬼門の方角には富士山、世良田枺諏m、日光が並んでいる。逆に日光枺諏mから見て裏鬼門の方角には天海が祀られ、慈眼堂が建てられている。これも偶然ではないだろう。
また可児と家康ゆかりの久能山、幕府直轄地で経済の源とも言える佐渡金山、明智一族が移動した福井、そして江戸、日光を結ぶと六角形、つまり荒郡摔胜搿
ちなみにイスラエルの国旗にあるダビデの紋も六角形のカゴメである。天海のもう一つの名を慈眼大師、フリ幞ぅ渐螭文郡蛩激铯换目の六角形とも繋がる。光秀が信長に仕えていた頃、信長の娘婿&;#12539;蒲生氏の家臣にユダヤ人のロルテスがいた。ロルテスは蒲生の家臣として西洋の会計や測量技術をもたらしたが、光秀はロルテスの影響を受けているのではないか。彼の築城術はここから来ているのかもしれない。この築城術で日光枺諏mを建てたかもしれない。枺諏mはまるで要塞のようである。
かごめの続き
「かごめかごめ」が徳川家、明智家、天海が絡む眩jな暗号歌である気がして来ただろうか。この歌の続きを紹介しよう。これは当サイトの掲示板に入った情報によるものであるが、信懀预蚋肖袱毪猡韦坤盲郡韦扦长长歉膜幛平B介する。詩人の谷川俊太郎氏の編による『日本マザ癌‘ス』の中で紹介されているらしい。
「向こう山で鳴く鳥は、信心鳥かニワトリか。金三郎のお土産に何もらった。金ざし、かんざし、買ってきた。迹麘酩韦工蓼酥盲い郡欷小ⅳΔΕ庭亥撙い皮盲俊f‘偅值坤握妞笾肖恰⒁粧iけ、二抜け、三抜けさくら。さくらの下で文一本ひろった。あくしょ、あくしょ、一本よ」最後の歌詞には別のものがあり「桜の下で文一本ひろった」から「その文だれだ。金三郎の妻だ。金三郎の妻はさんしょにむせた」と続く。
さっぱりわからない。後で別の人が付け加えたもので何の関係もないものかもしれない。しかし一概にデタラメとも言えなさそうである。「一抜け、二抜け、三抜け桜」は、枺諏mの門を表わし、表門、陽明門、唐門を抜けると拝殿に至り、その拝殿には三十六歌仙が桜の彫刻で飾られているのだ。この歌仙のどこかに謎があるのだろうか?
また「向こう山で鳴く鳥」に対応する可能性として枺諏mの枺戏较颏摔嚣嶘Q山があるが関係ないだろうか。
現段階で私がわかるのはこれくらいだ。何かヒントをつかんだ方があれば教えて頂きたいものだ。
結びとして
明智光秀が生き延びた伝説は確かに存在する。天海僧正と光秀とのつながりを暗示させるものも多い。だが「伝説」や「暗示」で歴史の定説は変わらない。小さな可能性を示しているだけである。私が結論として言えることは「謎である」。だから歴史は楽しい。
枺諏mに程近いところに中禅寺湖や華厳の滝が見える平らな場所がある。ここを明智平という。天海上人は明智平に来たときに「良い名だ。とても懐かしく遠くの事のようだ」という意味のことを言ったという伝説が残っている。
第二篇:上杉谦信原来是美女
第二篇:上杉谦信原来是美女?
这,这,这,太搞笑了吧!不过去过日本留学的朋友,请问一下你们的授课教授,想必他会告诉你们,这在日本是连小孩都知道的事实(气死我了,明明是在骂我学识还不如小孩)。为证明这并不搞笑,您还可以查一下最近出版的百科事典。‘上杉谦信是美女’,任何一本有关的新书上都会有类似引人注目的标题(前提是,您买的书必须要新,而且不是官方教材,因为日本教育局里只有一堆官僚,他们连二战的侵略史都不肯修正)。
说到这里,我想起了最近的电视剧《风林火山》。
《风林火山》中第一集最初的人物介绍,那个上杉谦信怎么看也象个女人。这,是导演的故意安排吗?
在这里,我给中国读者列出上杉谦信女性说的十个根据(本来有更多,我觉得证据确凿的是以下十项)。爱信不信,那就请读者们自己判断了。
话说西班牙革命的时候(1936年-1939年)(咦?上杉谦信没去过西班牙!同志们等一等,苹果香蕉啥子东西先不要丢……),著名的历史小说作者八切止夫在Toledo(西班牙中部城市)的一个修道院,发现了十五、六世纪传教士所写的关于日本的报告书。在这些报告书中,他奇怪地发现传教士们以女性称谓来谈论上杉谦信。到了一九六八年,八切止夫将资料整理完毕,在《读卖新闻》上发表了一篇《上杉谦信到底是男是女》的文章,顿时整个日本为之轰动。
大男子主义的卫士们也立刻揭竿而起,对八切止夫进行了激烈的批评(如果你也是大男子主义的坚实卫士,那么请不要再看下去了,不然你会受到重创)。
不用怀疑,本书作者也是大男子主义者之一,并因此事而和别人进行过激烈的辩论。然而遗憾的是,八切止夫的文章发表过去数年后,日本民众好象已经有了某种非教材性的共识。现在唯一觉得还不能接受的,大概是搞政治的大臣们吧。
如果阅完以下证据,您还觉得无法接受,那么我恭喜您,您一定也能成为我国教育部门未来的官僚精英之一。
第一,上杉谦信死于妇科病。说得更准确,是“因更年期障害而引起的妇科血液病”。松平忠明(战国时代末期、江户时代初期的大名)执笔的《当代记》中,对此有明确记载(其它古文献中也能找到类似记载),「越後景虎大虫にて卒す」。“大虫”,在《明解古语辞典》中有详细解释,是妇科的血液病。现代福井县有一个‘大虫神社’,就是专为得病的女性祈祷之用的。这种疾病的最大特征,是绝不可能发生在男性身上。《当代记》被日本史学会认定为:‘关于战国时代的确凿可信的史料’。于明治四十四年编辑的《史籍杂纂》,第二卷有收录。
第二,上杉谦信在每个月的十日左右,都会发生原因不明的腹痛。很多史料中都有这样的记载,[この10日前後に周期的に発生する腹痛とは生理痛ではないか](这种周期性的腹痛,难道是一种生理痛吗?)当类似于月经的这种腹痛发作时,上杉谦信不能骑马,当然就更不能上阵杀敌了。因此,上杉谦信一生,从不在十日这一天主动出阵与敌交战(特别注意:当时的历法是和历,计算月经比现代历法准确;第四次川中岛之战是唯一的例外,但原因在本书正文中有详述)。
第三,上杉神社中有许多上杉谦信穿过的衣物留存至今(第三卷本文中附有图片,请仔细观赏)。读者们一看便知,上杉谦信平日喜用的物品从舶来品到浴衣,全是女性服饰。
第四,上杉谦信本人的笔迹纤细,语句柔婉,称谓上经常使用女性用词。此外,当时日本因受上杉谦信影响,女性书信用词开始规范化,这是日本人都知道的名人逸事。
第五,一生没碰过一个女人的上杉谦信,写给女性的书信竟然远远多于写给男性的书信。这,也是大家都知道的事情吧。不仅如此,上杉谦信与各家臣、领主的关系,还不如与他们的妻子、姊妹的要好。上京面见天皇时,是唯一可以出入后宫,与嫔妃女官们随意来往的大名。请问,什么人可以得到这样的许可,天皇会允许谁随意接触自己的妻室女眷呢(以上杉谦信的名气与相貌,要是男的可太容易受人嫉妒哦……)?答案大概只有一个吧,那就是:她们同性别。
第六